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天外伺朗さんのインターネットの記事を見て「悟り」について考えてみた

2019/03/27/(水)

 天外伺朗さんは気功やバイオレゾナンス医学の活動を通じて様々に指導していただいている方です。天外さんのグループと一緒にマチュピチュやセドナに旅行したこともあり、個人的には兄貴のように尊敬しています。

(あの旅行は楽しかった。今でも思い出すとニンマリしてきます)


 天外さんの3月23日のfacebookの記事に小池龍之介さん(個人的には存じていません)が解脱に失敗して、懺悔されているという記事があり、これに続いて「サンガ」というブログの佐藤由樹さんの記事を読んでみました。

(一連のインターネットの操作は優秀なサポーターの三宮弥生さんがやってくれています)


 思い出したことは、四十年以上前に九州大学で心療内科を創設された池見酉次郎先生に「先生、悟りってなんですか?」と質問した時のこと。池見先生は医学者でありながら、高僧のような方で、心の問題、人生の問題など何でも質問すると深い答が返ってくる方でした。深いという意味はその時わからなくても、何年もたってからやっとわかってくるということです。先生は私の質問に対して、「大悟十八、小悟数知れず」とお答えになりました。私は、「へー、悟りとは大小あって、何回もあるんだ」と妙に納得しました。そして「小悟とは日常生活での気づきもその一つです」と言われました。大悟の内容についてはいわれませんでしたが、癌が自然退縮した患者さんにみられる「実存的変容」が大悟の一つだろうと思っています。大悟十八の十八は出典がどこなのか先生がご存命中に問うことを忘れていました。


 悟りや解脱は大小何回もあるんだと気が付くと、あまりそれにこだわらなくてもよい気がして、「人間死ぬまで発展途上人」を自分の基本原則にしています。天外さんは「意識の成長進化」という受け入れやすい、よい言葉をつくられていますので、いつも使わせてもらっています。


 では「人間死ぬまで発展途上人」を実現するにはどうすればよいだろうというテーマが生じてきます。


 現在の時点での結論的認識を述べてみたいと思います。それは「天地自然の理を自分の心身にしみこませていく鍛錬という身体活動が必須で、坐って瞑想することも大いにやるべきだが、それだけでは車の両輪にならず、片輪走行で進んでいくことは難しい。」ということです。


 古代ヨーガの修行者はこのような認識を確立していたようです。それはサマディ(=三昧)という深い瞑想の境地にはじっと坐ってそうなる「サビカルパ・サマディ」とその状態で日常の生活や動作が行える「ニルビカルパ・サマディ」の二つのサマディ状態を示す言葉が残されていることでわかります。


 「サビカルパ・サマディ」と「ニルビカルパ・サマディ」は一続きの意識のモードなので画然と分けられるものではありませんが、瞑想を続けていると、何となくその違いがわかってきます。坐って真言(マントラ)をとなえながら瞑想状態に入ると次第に真言を発声できなくなり、手足も動かしたくなくなってきます。それは一種の至福感を伴いますが、私のテーマの一つである武道では、この状態では相手の攻撃を受ければ間違いなく死ぬでしょう。そこで立禅という立って行う瞑想を行うことになります。

これも続けていると忘我の境地とクリアな意識の両方が生じてきます。立禅も筆者の親しくさせていただいている仏在住の空手十段で自成道創始者時津賢児さんは一日連続8時間の立禅を一時期されていたそうです。

筆者は1〜2時間の立禅はやっていましたが、職業柄時間がとれず8時間の立禅は未知の境地です。しかし気功法の小周天法や大周天法をやりながら小さな動きで立禅をすることにより、ニルビカルパ・サマディが徐々に心身に現れてくるようです。この状態で体を動かすと自然に太極拳のようなゆっくりしたなめらかな動きとなります。体の全ての関節が一つの動きに連動しています。これを繰り返していると、太極拳のゆっくりした動きは意図的にそうしたのではなく、ニルビカルパ・サマディの状態で動くと自然にそうなるのだと思えてきます。


 筆者の体験を述べてきましたが、気功の生徒さんに教えると再現性をもってそうなるので、これは有効な訓練と考えているところです。このような状態で生じる認識を天外さんは身体智とか無分別智と言われています。筆者は合気を発現していると思っています。それはこの状態に入ると相手が無力化してしまうことでわかります。イメージで言うと、相手を霧に包むと風がスーッと吹いてきて(自分で吹かせようとするのではない)、その風に乗って霧とともに相手が動いてしまう状態と言えます。これは合気道の師である松葉一路先生から教えていただいた技を生み出す元技(もとわざ)の一つである「霧導」という技になります。


 話しを戻しますと、小池龍之介さんは、もっと身体性、鍛錬といった要素を組み込まれるとよいのではないかと感じられました。また解脱失敗と言われることも大悟の一つではないかと思うのです。「最終解脱者」と自称して大事件を起こした方がいました。悟りや解脱は認識の力が高度化すること。心の内の無明が明となること。英語ではenlightenmentといいます。


「明りで照らす範囲が広くなると、明かりが届かない闇の部分はさらに広がるので、どこまでいってもきりがない」これは天外さんの説明ですが、私はいたく納得し、気に入っています。


 釈尊や空海大師に、「悟られた後、わからないことがもっと増えましたか?」と問うてみたいところです。